2012年6月30日土曜日

廿三夜塔 / 事貫

二十三夜 和田講中  文政五午年二月日 (文旻?)行年八十四

事貫(ことづら)地区 旧中学校脇に六地蔵などと並んで。文政五年午年は1822年。
廿三ではなく二十三と彫られている。

(二十三夜塔は)、奥多摩町から檜原村や八王子にかけての西部山間地域に分布が濃く、平野部では薄い。 日本の石仏 7 南関東編 国書刊行会1983年「南関東の庚申塔・月待供養塔 石川博司」




2012年6月29日金曜日

廿三夜塔 / 上川乗

廿三夜 当村若者講中  文化十三丙子二月吉日

 文化13年丙子(ひのえね)は1816年。草木が繁って写真が撮りにくい。墓地下に石碑・石仏が集められている。

 石造物・・・石材は・・・川石で・・・硬質の「砂岩」で、色は褐色が多く、ときにうすい青みを帯びた石もある。これはきめが細かく、濡れると美しい石肌をする。
 川石は硬くて加工しにくい。像塔には不向きで、いきおい文字塔に使用される。
 「五日市の石仏」 五日市町郷土館 昭和62年。







2012年6月27日水曜日

廿三夜塔 / 笛吹

廿三夜 笛吹村講中 天保七丙申年八月吉祥日

読みが難しい、笛吹(うずしき)地区。天保七年丙申(ひのえさる)は1836年。




2012年6月26日火曜日

廿三夜塔 / 上平

念三夜塔 上平中 嘉永四歳亥辜月吉祥日

 五社神社の参道を登り始めるとすぐの所にあります。「念」は廿の代わりであると、「檜原村の石仏 第二集」にあります。 嘉永四年は1851年。
 辜月(こげつ)は11月の異称。無辜の辜だから、(こ)は罪の意だと思いますが、なぜ11月か? 曇りとか、光を遮るというような?





2012年6月24日日曜日

廿三夜塔 / 本宿

廿三夜 講中 嘉永三庚戌年八月吉日

 嘉永三年庚戌(かのえいぬ)は1850年。 本宿(もとしゅく)の春日神社本殿脇に、庚申の文字塔と石祠と並んで。

 「三夜待講」 各組毎に、一家の主人が毎月23日の夜に集まって催していた。・・・明治43年から新暦の23日・・・講金は月に30銭・・・毎日一人から一銭五厘ずつ徴収・・・
 (当番の)家では・・(持ち回りの)三夜さんの像(掛軸)を床の間に飾って果物菓子などを供える。集会した人は月の出を拝み、懇談して帰る・・・  明治37年から酒肴を出すようになった。
 講は現在も続けられているが、・・・掛け金は500円~1000円となっている。
  「佐賀県の民俗 下巻」 昭和49年 の藤津郡塩田町町区(現:嬉野市)





2012年6月22日金曜日

廿三夜塔 / 白倉

廿三夜 申實立之  嘉永五子星九月良辰

村史に所在地は八割(やわり)とある。白倉地区の大岳神社本殿わき。
嘉永五年は1852年。
廿三夜の字は小さいがしっかりした字で彫られている。庚申像二体と並んでいる。








2012年6月20日水曜日

廿三夜塔 / 時坂

廿三夜  時坂講中  万延元星庚申五月良辰 

 下の方は苔に覆われ、小さい字は読み取れません。時坂・・・時の坂道・・・いい地名です。万延元年庚申(かのえさる)は1860年。 良辰・吉辰は良い日、吉日の意。


 「女人が中心で講をつくり、宵のうちから村のお堂などに集まり、念仏を唱え、飲食をともにしながら月の出を待つ。封建の世に女たちが、月にことよせて、わずかに自由を楽しむ夜でもあった。・・・檜原の月は美しい。・・・森閑とした森の沈黙を照らし、秋川の面には気ぜわしく銀波が砕ける。女人たちが頬を染め、歓声をあげる姿が彷彿として浮かび上がってくる。檜原の月は、東から西へ、浅間尾根の上空を縦走していく。」

 檜原村紀聞 瓜生卓造 昭和52年東京書籍




2012年6月19日火曜日

廿三夜塔 / 宮ヶ谷戸

(月・日) 二十三夜 宮ヶ谷戸講中  安政四丁巳歳十月二十三日

 安政四年丁巳(ひのとみ)は1857年。

 日輪・月輪は庚申塔や馬頭にもみられる。飯田道夫「日待・月待・庚申待」1991年によれば、日と月は陰陽道のシンボルであったとかんがえられる。陰陽道というのは・・・万事を陰と陽の二元論で説こうとするもので、陰の代表が月、陽の代表が日である。




2012年6月18日月曜日

廿三夜塔 / 泉沢

廿三夜  安政五 龍次戊午 弥生良辰

 街道の対岸から沢沿いに分け入った、桃源郷のような集落、泉沢(いずさわ)。そこの貴布禰伊龍(きふねいりゅう)神社の拝殿登り口にたつ廿三夜塔。

 「龍次」は歳次・大歳と同じく年号の尊称。安政五年戊午(つちのえうま)は1858年。
 安政の「政」は、こちらも偏と旁が縦になっている。




2012年6月17日日曜日

廿三夜塔 / 下川乗

(月輪) 廿三夜 村中 文政九戌八月吉日

 左下に「村中」 年記銘は向かって右側面にあり、文政の「政」の字の偏と旁(つくり)が縦になっている。文政九年は1826年。

 日輪、月輪ではなく、単独で月輪が上部に。





2012年6月16日土曜日

廿三夜塔 / 柏木野

廿三夜  當邑中  天保十己亥年十月日建之

 天保十年己亥(つちのとい)は、1839年。
桜の樹の下にあり、花の季節に訪れたい。向かいの山あたりに月がかかると綺麗でしょうね。 彫られた字もかわいらしい。
 ひのはら村の廿三夜塔は、ほとんどが「廿三夜」、「廿三夜塔」 と刻まれているが、「勢至菩薩」 が数点ある。





2012年6月14日木曜日

廿三夜塔 / 笹野

廿三夜 講中  嘉永六癸丑年八月吉日

 橋のたもとに石碑が並んでいます。嘉永六年癸丑(みずのとうし)は1853年。

 二十三夜塔は全国に存在し特に関東や長野県に多いらしい。「日本石仏事典第二版 雄山閣」によると、長野県東筑郡には238基あるとでています。
 同書の分類で、二十三夜塔は①刻像塔 ②文字塔 ③板碑 があり、ひのはら村では刻像は今のところ無さそうです。板碑は未確認です。



2012年6月13日水曜日

廿三夜塔 / 小岩

上部に右から横書きで 廿三夜 縦に大きく 月天子 
天保十四癸卯(みずのとう)寒露吉日

「月天子」の子の字の、下の方が埋もれている。面白い書体。寒露は二十四節気の17で、現在の十月八日あたりだそうです。
元の学校下に石碑がずらりと並んでいます。





廿三夜塔 / 上元郷

廿三夜  関志路氏 安政三丙辰歳八月祭日

 安政三年(ひのえたつ)は1856年。 最初は関・・志略・・・と間違って読み、なんだか三国志のようなどと思っていたのですが、関志路(せきしろ)さんという苗字のようです。
 誰だかまったくわかりません。福島の方の名前?  石もどこから持ち込まれたか、ひのはら村では他に見ない赤御影石? 謎です。 上部が破損しています。 日枝神社境内。

 






2012年6月11日月曜日

廿三夜塔 / 神戸

廿三夜 神戸村中  文久元辛酉歳九月吉日

 洪水で流された廿三夜塔・・・その後新しく立てられた廿三夜塔が、春日神社内にある。珍しく社殿の方、山側を向いている。
 文久元年辛酉(かのととり)は、1861年。地名は神戸と書いて「かのと」と呼ぶ。



2012年6月10日日曜日

廿三夜塔 / 神戸

二十三夜塔 講中  弘化二巳年十一月吉辰 

 安政六年(1859)に大きな洪水があり、その時に埋まったと思われる廿三夜塔が水道工事の際に地中から見つかったという記述がある。この塔がそうか、こんど確認しておきます。
 「やさしい多摩市町村の歴史」有峯書店 昭和56年。
檜原村担当は濱中銀之助氏。塔に欠けているところがあり、それらしいのですが。
 弘化二年は1845年。



2012年6月9日土曜日

廿三夜塔 / 茅倉

廿三夜  元治元甲子年八月吉祥日
 
 神社の後ろを通る道脇に、同年(1864年)に立てられた寒念仏塔と並んで。

 月待塔には十三夜、十五夜、十七夜、十八夜、十九夜、廿日夜、廿一夜、廿二夜、廿六夜、・・・などもあるらしいのですが、ひのはら村には廿三夜塔しかないようです。







2012年6月8日金曜日

廿三夜塔 / 千足

廿三夜 講中 嘉永六丑年六月吉日

二十三夜の月待ちなども・・・十年に一度とか五十回目・百回目とか、・・・記念の大祭を挙行して、石の塔を一定の場所に建てる・・・柳田國男「年中行事覚書」




2012年6月7日木曜日

廿三夜塔 / 白倉 /

「廿三夜 講中 嘉永六昭陽赤奮若六月吉良辰」

 木星と対象の位置に太歳という星を仮定し、十二辰による位置で年を記録する「太歳記年法」によると、昭陽は(癸みずのと)、赤奮若は(丑)。
 嘉永6年は1853年。ペリー来航の年ですね。腰をおろしてゆっくり月を待つに、良い場所です。





2012年6月6日水曜日

廿三夜塔 / 中里

廿三夜塔 女人講中  嘉永元年戊申卯月。1848年。梵字は勢至菩薩の種子サクか。ひのはら村中里。月が出たらよく見えそうな場所にあります。
 月待ち。二十三夜は下弦の半月で、おそい月の出。講の人たちが集まり、飲食し経など読んだのでしょうか。年長の方に伺っても、実際に見聞きはされていない。十五夜ではなく二十三夜というのが、奥ゆかしく思われます。