2012年10月29日月曜日

百番塔 / 上川乗

百番塔  施主 山本五良左衛門  (他五名)

文化二乙丑天四月吉祥日

文化二年乙丑(きのとうし)は1805年。
檜原村南谷の上川乗組は、新編武蔵國風土記稿の文化12年(1815)の調査によれば、「民家ハ十九軒アリ」となっている。
その小さな集落で、1763年から1805年の約40年間に7基の百番塔が立てられている。
隣町の五日市でも、1780年から1809年の建立が最も多い。やはりブームのようなものがあったのでは。

 ちなみに九州・佐賀県西部の鹿島地方でも、宝暦年間(1750~)頃には西国や四国の霊場巡りに参加するする人々があり、寛政年間(1789年~)頃には地元にも霊場が設けられた。
 どういう理由か、幕末になると佐賀藩では霊場巡りを禁止したらしい。





2012年10月28日日曜日

百番塔 / 上川乗

百番供養塔  山本勘七・・・他三名

寛政十戊午天四月吉祥日

養の字の上下が、左右になった異体字。寛政十年は1798年。
寛政六年に、伊勢参宮のため130人の団体通行手形が村の名主によって発行されている。江戸版ノーキョーツアーのようで楽しかったでしょうね。伊勢まで江戸から片道15日かかったとか。



百番塔 / 上川乗

奉納百番塔

天明二壬寅年十月初五日

どっしりとした石塔です。納という字が異体字か少し変形です。
天明といえば、この頃より東北地方で異常気象による飢饉が始まったようです。天明の大飢饉。天明二年壬寅は1782年。





百番塔 / 上川乗

百番塔  敬言

安永三午天四月初七日

敬言は敬白、敬い申すのようなことでしょうか。それにしては何も書かれていません。
あるいは、あまり例はみられませんが俳号・雅号のようなものかも。

人生のひと仕事が一段落し、跡取や孫もあってまずまず安定してきた。芭蕉を気取ってでもないが、少しずつ蓄えたお金で秩父三十四番や江戸での札所写しの霊場巡りに、谷間の村から旅立った。安永三年は1774年。



2012年10月27日土曜日

百番塔 / 上川乗

奉納百番観世音供養塔  上川乗村

明和五年戊子三月吉祥日 

三人の名前が記されている。明和五年は1768年。
村史の百番塔の説明には、霊場百番を巡拝するのは困難なので、代わりに塔を建立して功徳を得ることを祈念したもの・・・とある。
しかし江戸に「西国札所写し」があり、「坂東三十三番」も江戸ですませられたということもあり、ここは3人で出かけて行って、達成したとみたいですね。

となり町の檜原村寄りにも、同じ頃に百番塔が建立されていて、参加者名が細かに刻まれ、中には女衆が中心の碑もあるようです。








百番塔 / 上川乗

奉納百番供養塔   蘭山代

宝暦十三未天五月吉日

同じ地区の同じ場所に集められたのか、並んで立っている百番塔。
先のものと年月も同じ、宝暦十三年(1763年)。

蘭山代は、蘭山さんの代わりに巡礼したということでしょうか。
同時代に日本の本草学を集大成したといわれる、小野蘭山という人がいて、ちょうどこの年に「花彙」(かい)という美しい本を著していますが・・・
もう少し後の1800年過ぎに檜原村を採取の旅で通った可能性はありますが、この碑に刻まれている名がその蘭山かどうかは分かりません。1810年没。






百番塔 / 上川乗

奉納百坂供養塔  宝暦十三未五月日

百番が百坂と表記されている。宝暦十三年は1763年。
この地域で特に観音霊場巡りが流行したのか、あるいは造塔を競ったのか石碑が多い。
檜原村の中でも百番塔は南の地区に多くみられる。



百番塔 / 出畑

奉納百番供養塔 出野村 歌田仁右衛門

明和五戊子天三月吉祥日

 現在の地区名の出畑(いずはた)は、新編武蔵風土記稿によると、出野(いでの)組の小名のひとつ。
 明和五年戊子(つちのえね)は1768年。



2012年10月26日金曜日

百番塔 / 笹平

奉納百番供養塔  宝暦十三年未四月吉日

 観音霊場西国三十三番 坂東三十三番 秩父三十四番の合計百番の札所の巡礼を達成し、造立。 実際には江戸に西国写し、坂東写しの三十三所観音があり、そちらを回ったものも多いようです。

 宝暦十三年は1762年。しっかりした彫りの石塔です。




2012年10月22日月曜日

道しるべ / 和田

右は山道  左は川のり道    年記は不明

道しるべなのに、今はこっそり隠れるように。




2012年10月21日日曜日

庚申塔 / 夏地

奉供養庚申二世安楽之処 敬白  

貞享三年寅六月吉辰 

 小沢地区の宝蔵寺石段を登る途中にある。 古い。1636年。三猿がユーモラス。
 新編武蔵風土記稿には、開山は頼憲坊で寛永年中の人なりとある。寛永元年は1624年。本尊不動。

 古碑多ク・・・永和元年(1375年)元亨三年(1323年)・・・トカスカニミエルモノアリ・・古キ寺院ノ廃レタルヲ再興セシナルモシルベカラス








2012年10月18日木曜日

庚申塔 / 大沢

庚申  奉願主  講中  万延元庚申年仲秋

万延元年はちょうど庚申で、1860年。大沢集落。
万延元年といえば大江健三郎の「万延元年のフットボール」が思い起こされる。

石碑の並んだ中にあるが、ゆっくり見ているとなかなか味わいのある石碑である。




2012年10月17日水曜日

聖徳太子塔 / 時坂

聖徳太子  文政六癸未星

 年の代わりに「星」はめずらしい。 時坂の人家のそば、ごつごつとした寒念仏塔の傍らにひっそりと立つ。
 文政六年癸未(みずのとひつじ)は1823年。




2012年10月16日火曜日

聖徳太子塔 / 上平

聖徳太子 諸職人講中  明治四十三年三月二十二日

自然石のすっきりとした、文字塔。わりあい新しく明治の終わりころ。
職人講中といっても、山仕事の人たちであろうか。

五社神社の鳥居をのぼったあたりに立っている。





2012年10月10日水曜日

道祖神 / 大岳山

猿田彦大神 右かのとミち 吉野のと おいと □

天保九戊戌九月吉日

大岳山へ登る途中にある。かのとは神戸集落。
天保九年戊戌(つちのえいぬ)は1838年。
大岳神社の宮司も吉野氏。

聖徳太子塔 / 千足

聖徳太子 中里 白倉 大沢講中  文久三年八月二十二日

檜原村の石仏第二集には、中里組、白倉組、大沢組講中とある。
高さ220センチの大きな文字塔。
小さい字は確認しにくい。

この地域も大工さんが多い。三地区の職人さんの太子講だったのでしょう。
橋のそばにお地蔵さんなどと並んで立っている。




2012年10月8日月曜日

馬頭観世音 / 中里

茂右衛門  文政九 戌十一月晦日

 中里集落の墓地の中に立っている。誰が供えたか馬蹄がおいてある。 地元では馬蹄観音と言う・・・というのは冗談。 競馬の願掛けかもしれない。
 ちょうど彼岸花がたくさん咲いている。 いい墓地というものがあるとすれば、ここもいい墓地である。
 文政九年は丙戌(ひのえいぬ)1862年。









2012年10月5日金曜日

道祖神 / 時坂

(二体像) 年紀銘等は不明

浅間尾根の入り口の集落、時坂。人家から少し離れた所に、時坂峠。尾根に登りきった左側に石仏群。右に木の祠。
堂跡とある。そばに見なれない石像。村史では道祖神に分類されている。
「人頭杖」(じんとうじょう)という、閻羅王(閻魔王)のそばで人の罪業を判定するものに、似ているような感じですがどうでしょうか。





2012年10月2日火曜日

地蔵 / 泉沢

(地蔵像) 年紀不明 

檜原村の石仏第二集に「おできに効験あらたかで、治ると饅頭を供えてお礼をするので、まんじゅう地蔵と呼ばれている。」とある。

だいぶ摩耗しているが、気持ちの良い場所にある。





2012年10月1日月曜日

馬頭観世音 / 茅倉

(馬頭観音像) 明和四天三月吉日

「虫歯の傷みに効験があるといわれ、お礼の箸があげられている」檜原村の石仏第二集
明和4年は1767年。 道路わきを登った、見晴らしのいい場所にある。